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『映画空間400選』作品紹介文サンプル

『映画空間400選』400選リスト

▼001

工場の出口

工場の門から人々が出てくる。工場が営業を終えて出てきたのかと思うが、よくわからない。犬がぐるぐる回り、自転車の男が通る。工場の門から、と書いたがこれが本当に工場なのかもわからない。ただ門がありそこから人が出てくる。もしかしたら、門の内側にカメラを置いて外からやってくる人たちを撮ってもよかったのかもしれない。だが、大勢の人が出てくる出口の光景こそ映画的な興奮を呼ぶものだということを、それから1世紀以上たった私たちは知っている。リュミエールは同年の『列車の到着』で、列車の最も映画的な撮り方──遠近法によって次第に大きくなる列車──を発明した。この『工場の出口』でも彼はすでに、人が出口から世界に向かって出てくる、それだけのことが「映画」になるということを発見していた。|結城

1895年/ルイ・リュミエール/46秒/フランス

[キーワード]工場、人、世界

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▼013

黄金狂時代

冒頭の探鉱者たちが雪山を麓から頂上まで見事に列をなして登っていくシーンはいまなお圧巻だが、チャーリーが登場した途端、雪山がセットに変わるあたりがチャップリン作品ならでは。チャーリーが雪山をさまよう様を、画面を横に移動するカットをひたすら繋いでいくことで見せていき、吹雪が起きて山小屋に逃げ込めばあとはお手のもの。フレームにぴったりと収まる小さな小屋の室内、そして左右と奥に設けられた三つの戸口を使ってチャーリーが熊や大男から逃げ回ったり、空腹のあまり革靴を煮込んで食べたりする様が描かれていくわけだ。さらにその小屋を崖っぷちに吹き飛ばし、空間(小屋)そのものを斜めに動かすことでチャーリーを動かすという応用パターンも登場。チャップリンは空間を切り取らずに作り出す。|黒岩

1925年/チャールズ・チャップリン/96分/アメリカ合衆国

[キーワード]雪、山小屋、ダンスホール、崖

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▼077

ゴジラ

ゴジラは海からやってくる。シリーズ第1作である本作において、ゴジラの姿はなかなか観客の前に現れない。その出現を示すのは、足音と放つ閃光だ。音と光、原爆の俗称を思わせるゴジラという存在の本質は、人類に対する防ぎようのない災厄である。と同時にそれ自身水爆の被害者でもある。核に対する恐怖とその被害に対するシンパシーとが物語を駆動していく。たった一度だけ都心に足を踏み入れるゴジラが炎上する街を歩いていくシークエンスには、恐怖とともに奇妙な静けさをともなった美しさがある。前景に逃げ惑う人々を配置したショットなど、単純な合成によって構成された画面がここまでの強度を持ち得るためには、名もなき市民として映りこむ無数の人々の内に深く刻まれた戦争の記憶が必要だったはずだ。|結城

1954年/本多猪四郎/97分/日本

[キーワード]海、山、東京、核

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▼104

スリ

見つめられているのは身体の周辺1m以内。いきおいバストショットが多い。首からうえが切れている画面さえよく出てくる。そのかわり、スリの手の流れるような運動はもちろん、手と触れ合うバッグ、ジャケット、財布、新聞、ドア、把手、手摺りなどが大きな役割をもつ。その優雅さは、まるで事物と身体とによる高度なバレエのようだ。ごく普通の日常のなかでほんの少し視線を変えるだけで世界には、身体と事物とが合図を交す目を見張るような光景がにわかに溢れてくるのだが、しかし建築のほうからすれば、それこそが建築における経験の在り方であったことに気付かされる。だからこの映画は、身体が空間を潜り抜ける濃密な経験のトンネルであり、それはアパートも地下鉄も競馬場も拘置所も貫通するひとつの建築ではないか。|鈴木R

1959年/ロベール・ブレッソン/76分/フランス

[キーワード]パリ、カフェ、地下鉄、ドア、手

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▼108

二十四時間の情事

8月の広島で女優エマニュエル・リヴァは建築家岡田英次と一度きりの関係をもつ。行為の後の気怠い会話のなかで彼女の記憶の糸が手繰られていく。広島と郷里ヌヴェールがクロスカッティングで重ね合わされ、目の前の「あなた」を介して時にフラッシュバックのように戦中の記憶が蘇る。わたしが美しかった町ヌヴェール。ドイツ兵との恋、幽閉され頭を刈られた地下室、ヒロシマ、我が愛。記憶装置である映画の時間性は生来的にワンシーン・ワンショットにある。映画史とは見たものの歴史に他ならない。そこにモンタージュの発明と洗練によって二つの時間と空間を繋ぐ叙述の形式を獲得した。そしてレネは、二つの時間と空間の狭間、モンタージュの敷居に、見られなかったものの想起、あるいは忘却という契機を発見したのである。|戸田

1959年/アラン・レネ/91分/フランス・日本

[キーワード]広島、フラッシュバック、記憶

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▼151

ミクロの決死圏

洞窟の奥へ、海の底へ、地底深くへと潜り込もうとする人の想像力は、人体へ、脳のなかへも入り込もうとする。物語の背景に明らかに東西冷戦構造があるが、さして重要ではない。底知れなく深く、閉ざされた未知の場所への潜行という魅惑。そこは暗くて湿った神秘の場所であり、科学者も思わず神の存在を語り出す。着陸する飛行機からはじまる本作は、カーチェイスの後、迷路のような巨大な建物のなかを移動する乗り物を映し出す。この場面の連鎖や建物がすでに、人体内の血管のネットワークを想起させる。この映画が、洞窟や地底、海底への潜行の物語と異なる点は、潜行すべき神秘の人体を、張り巡らされた血管のネットワークとして捉える点だろう。そこには闇の奥にある、探求が辿り着くべき真理という終着点がない。|古谷

1966年/リチャード・フライシャー/100分/アメリカ合衆国

[キーワード]ネットワーク、原子力潜水艦、冷戦、縮尺

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▼229

終電車

劇作家のルカは、上階の音を聞くことができる穴に耳を近づけ舞台稽古の様子を把握する。ユダヤ人の彼がナチ占領下のパリで劇場の地下室に身を潜めていることは、看板女優の妻以外は、劇団員にさえも決して知られてはならないことである。よって、ルカは聴覚以外の感覚を全て奪われた状態で稽古を「見守る」ことになる。この時彼はどのような空間体験をしているのか。上階の舞台と客席はルカが熟知している空間であるが、地下室に居る時には全て過去の記憶だ。一方、今現在の音による新たな空間が次々に立ち現れてくる。つまり過去の空間と今現在の音空間が彼の頭の中だけで同時に融合され、いわば「思い出すように見ている」のだ。このような特殊な空間体験によってルカだけが、「妻は若い俳優に夢中である」という事実を知り得た。|西尾

1980年/フランソワ・トリュフォー/131分/フランス

[キーワード]第二次大戦、ナチ占領下のパリ、劇場、地下室

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▼239

E.T.

スピルバーグのフィルムに強度を与えるのは、日常的な感覚を伴うハンドメイドな空間リアリズムである。エイリアンを匿う郊外の住宅地は、いかにもその辺で探してきたといった風の普通の住宅地で、幻想が抑制された説得力を持つ。コミュニティの喪失がつくった住宅地というエアポケットにファンタジーがすっぽりと入り込んでしまうのだ。少年たちとエイリアンのユートピアが破綻しかかったとき、法則を無効化するアジール的装置として「自転車」がここに発見される。手入れされた芝生の庭とショートケーキハウスが並ぶアメリカの典型的住宅地という環境が、少年たちが滑走する「自転車」の過剰なふるまいによって、描き換えられていく様は、極めて具体的に、日常的な空間における創造のヒントを示してくれている。|藤原

1982年/スティーヴン・スピルバーグ/115分/アメリカ合衆国

[キーワード]アメリカ、自転車、郊外、異星人、共同体

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▼253

台風クラブ

この少年少女たちは、台風の襲来に何を期待していたのだろうか。すべてを吹き飛ばして欲しかったのだろうか。いや、むしろ台風によって校舎に閉じ込められてしまう羽目になるのだが、彼らにとって「授業のない学校」は、その非日常性によって、運動会よりも学芸会よりも楽しく、卒業式よりも残酷な教育の場となってしまった。学校の「すべて」にキャメラを向けたと思しきこの映画は、誰しもが懐かしむ学校という空間の記憶を一発の台風によって無効にする。小中高と12年間も通ったくせに、私たちは学校のことを何も知らなかったのだ。夜のプールや水浸しの校庭は少年少女たちの新芽のような性をめくり上げる舞踏場となり、そして誰もいない理科室が、こんなにもスリリングな実存の鉄火場になってしまうとは。|冨永

1984年/相米慎二/96分/日本

[キーワード]中学校、宿泊、台風、ダンス

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▼300

オリーブの林をぬけて

丘の頂上に立つホセインは眼下のオリーブ林を歩く求婚相手の姿を認め、丘の急斜面を下っていく。ついさっきまでカメラの眼前にあった彼の身体は見る見るうちに林の中へと吸込まれる。林を抜けて彼女に追いつく頃には、彼らの姿は二つの小さな白い点と化す。二つの点は戯れながら移動し、ある地点で停止する。突如、一つの点が道を外れ、草むらを真っ直ぐに丘の上のカメラに向かって来る途中で映画は終わる。私たちはここで具体的な身体が幾何学的な点に還元されていく過程、つまり触覚的世界(3次元)から図式的世界(2次元)へと段々に移行する過程を同一ショット内で体験する。その地続きな連続ゆえに、私たちは幾何学の運動を観ているに過ぎないのであるが、ホセインの「感情」を自ら読み取っていることに驚嘆するのである。|小野H

1994年/アッバス・キアロスタミ/103分/イラン

[キーワード]イラン、ランドスケープ、ジグザグ道、地震

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▼377

国道20号線

東京と山梨を結ぶ国道の中では最長のものである国道20号線。そこに立ち並ぶパチンコ屋と大手消費者金融のATM、ドン・キホーテとラブホテル。2000年代の初頭にはすでに地方の典型的な風景となってしまったそれらを舞台として、どこにも通じていない道路の脇にへばり付く人々のロード・ムーヴィができあがる。スロットとシンナーとゲームの日々が繰り返されていくこの作品が、ただ地方都市の幻滅を示すだけではないのは、登場人物たちの語りと語られる内容が非常に魅力的だからでもある。甲州弁の響きと非常に小さな社会内の噂話が結びつき、どこか民間伝承や神話のような強度が付与される。無根拠な希望や郷愁や諦念を排して、誠実に地方都市を描き出すこの作品の中で、ローカルなものが普遍的なものに触れる。|結城

2007年/富田克也/77分/日本

[キーワード]山梨、ロードサイド、風景、資本主義

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▼387

崖の上のポニョ

主人公の少年の一家は海を見下ろす崖の上の一軒家に住んでいる。父親は船乗りで、家を空けていることが多い。ある日、少年が海で不思議な魚を拾ってきて、ポニョと名づけるところから物語が始まる。空間的に興味深いのは題名にもなっている崖の描かれ方だ。たとえばポニョとの出会いの場面で少年が家の裏から海面まで歩いて下りていくときの崖と、嵐の夜に母親が車を飛ばして駆け上がっていく崖、あるいは父親が船の上から我が家を眺めるときの崖、それぞれ高さが違って見える。つまりそこはいわゆる客観的な座標空間ではないのだが、それが不自然かというと、むしろ出来事と連動して生き生きとした空間のリアリティを感じさせる。それはアニメだから成立することなのか? この映画の躍動は世界の認識の仕方に示唆を与える。|長島

2008年/宮崎駿/101分/日本

[キーワード]崖、海、港町、船、嵐、家族、老人ホーム

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